高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

【札幌市/山中圭介】

高杉晋作の人生において吉田松陰という人物は人生の支柱になっていたと言っても過言ではない。
晋作にとって師・松陰は特別な存在であった。

晋作が松下村塾の門をたたいたのは安政4年・19歳の時である。
※久坂玄瑞から誘いを受けたと言われる(中谷正亮という説もあり)

晋作は当時、剣術に熱心であまり学問に打ち込んではいなかった。
後年、晋作は獄中手記の中でこのように回顧している。

【年 甫(はじめ)て十九、先師二十一回猛士に謁す、始めて読書行道の理を聞く】

晋作を学問の道へと導いた松陰はその教育も晋作の個性を潰さないようにしている。

松陰は晋作を“有識の士”であると見抜いた。
同時に、学問が未熟で自分勝手な解釈がある事も見抜く。
学問を伸ばすために松陰は事あるごとに久坂玄瑞の名を出したという。
元来、負けん気の強い晋作は学問に打ち込み、後に“松下村塾の双壁”と言われるまでに成長するのでだった。

もうーつのウイークポイントであった勝手な解釈については桂小五郎も同様な見解を持っており、密かに松陰に矯正を持ちかけていたが松陰は、『それは個性でありみだりに矯正すべきではない』との見解を示し、桂小五郎を納得させたという。
もし松陰が晋作を無理矢理に矯正したとすれば、後の高杉晋作はいなかったかもしれない。

そんな晋作が松陰と交流できた期間はわずか3年、直接教えを受けれたのは約1年という短いものだった。しかし晋作はこの短い期間で確実に成長していた。

晋作が江戸遊学の途についたのは安政5年7月である。
江戸遊学で晋作は学問に対する疑問と他の門下生のように自由に行動できないジレンマに陥っていた。そんな晋作の心の支えはやはり師・松陰だったのである。

そうした中、松陰が老中・間部下総守暗殺、次いで伏見要駕策を唱え、藩に危険視され投獄されてしまった。松陰は門下生にも協力を促すが時期早尚と判断され、晋作も5名連名で諫める書簡を送った。これに憤慨した松陰は晋作たちを非難し【絶交】を申し付けた。
この時期の晋作にとって絶交の二文字はかなりこたえたであろう。
※後に松陰が“草莽崛起論”にたどり着いて関係は修復されている。

松陰が安政の大獄で江戸送りとなったのが安政6年5月の事であった。
伝馬町の獄につながれた松陰を晋作は懸命にサポートした。
そこで晋作は松陰から“丈夫(男子)、死すべきところ如何”と以前に質問した答えを、獄中からもらうのである。

『死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし。』

この言葉が後の晋作の人生に多大なる影響をもたらしたと言っても過言ではない。
この運命の手紙をもらったのが7月であった。

その3ヶ月後、晋作に帰国命令がくだる。
晋作は別れを告げ、松陰も今までの尽力に感謝をすると共に門下生の世話を頼んだ。
そして10月17日、晋作は江戸を発った。これが今生の別れとなる。

吉田松陰は10月27日処刑された。晋作がこの訃報を聞いたのは帰国途中の空の下であった。

後の高杉晋作の活躍には欠かす事の出来ない吉田松陰。
冒頭にも書いたが特別な存在であり、その教えは晋作の原動力であった事は間違いないであろう。
3年という短い期間は晋作にとってかけがえのない3年であったのである。