高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

【下関市/平松 資朗】

1、「憲法政治」実現に全生涯を懸け、近代日本を創った男、伊藤博文

初代内閣総理大臣伊藤博文は、理念を持った大政治家であり、かつて木戸孝允が評したように「剛凌(ごうりょう)強直(きょうちょく)」(強く厳しく正直)な人物であった。

高杉晋作は松下村塾で共に学んだ2歳年下の伊藤を大変かわいがり、名前まで考えてやる。伊藤は高杉が命を懸けた御殿山イギリス公使館焼き打ちや、功山寺決起にも従った。

 

2、「改名の事情」(「伊藤公全集第三巻」直話)

『高杉が、論語の博文約禮のことを引いて、博文にしろと勧めるものじゃから、その通りになった。高杉は面白い男で、しきりに俺の名前の世話をやいた』。 『高杉は才学群を抜いて、前途有為の材じゃったが、肺病で夭折した。実に惜しいことをした』。

利助を俊(しゅん)輔(すけ)にしたのも、号を春(しゅん)畝(ぽ)にしたのも、字(あざな)を子簡(しかん)にしたのも晋作だった。伊藤は晋作から貰った名前で激動の明治を生き抜き、大政治家となっていった。

 

2、明治維新の基をつくった功山寺決起(回天義挙)

元治(げんじ)元年(がんねん)(1864)12月15日夜、高杉晋作はわずか80名ほどを率いて雪の功山寺で決起した。功山寺書院に潜居する三条実美ら五卿の前で挨拶。『今日より長州男児の肝っ玉をお目にかけます』。

奇兵隊・諸隊が「時期が悪い」と反対する中、伊藤俊輔は力士隊を率いて晋作に従った。四面楚歌(しめんそか)の中、文字通り命がけの義挙であった。伊藤さんは立派です。さすが初代内閣総理大臣。

翌元治2年1月2日、伊藤は現存する了圓寺本堂前の階段に片足をかけて、晋作がつくった檄文(幕府恭順の萩俗論派を討つという大義名分を記した文章。「討奸檄(とうかんげき)」とほぼ同じ内容)を走り書いたと伝わる。

時勢を一変させる回天義挙「功山寺決起」は成功し、長州藩の藩論は回復し、時代を明治維新へと大きく前進させる切っ掛けとなった。明治維新で日本は近代化に成功し、国の独立を護った。

 

3、東行庵の「高杉東行顕彰碑」。明治44年(1911)5月20日除幕

『動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭(がい)然(ぜん)(驚くさま)として敢(あえ)て正視するもの莫(な)し。これ我が東行高杉君に非ずや』で始まる格調高い名文(原文は漢文)は、伊藤博文公の撰文。晋作と生死を共にした伊藤公ならではの情感がこもり迫力ある内容だが、冒頭は功山寺決起を思い起こして記したものと思われる。1200字の撰文は伊藤公の力作で、晋作の生涯と功績を簡潔にまとめている。

『眼光は炯炯(けいけい)として才識人に絶す』 『嗚呼(ああ)、君没するの翌年、 聖上(せいじょう)登極(とうきょく)(天皇陛下の御即位)し、乾坤(けんこん)(天地)一新す。しこうして君、目に中興の聖業を覩(み)るをえず。身に 昭代(しょうだい)(太平の世)の霈(はい)澤(たく)(恩恵・恵み)に霑(うるおう)能(あた)わず。悲しいかな。・・・』

撰文の日付は明治42年(1909)9月。世界に名を知られる大政治家となっていた伊藤公は、翌10月26日に満洲ハルビン駅で暗殺者の凶弾に倒れた。奇(く)しくもその翌日は、吉田松陰先生が安政6年(1859)10月27日、江戸伝馬町獄内の刑場で処刑されてから50年目であった。師弟の縁(えにし)であろうか。

一方、碑の完成を心待ちしていた梅處尼(うの)は明治42年(1909)8月7日、67歳で病没した。彼女は42年間にわたり草深い清水山の東行庵で、晋作の菩提を弔った。

この碑に最も関係が深い二人は、碑の完成を見ることが出来なかった。

明治44年(1911)5月20日、盛大な除幕式が行われ井上馨が除幕した。彼は往時を思い起こして、声(せい)涙(るい)俱(とも)に下(くだ)る大演説を行った。

『高杉君の名を慕うだけでなく、その精神を慕い、君に忠、親に孝、人と交わるに信を常に心がけ、高杉君を師として国家のために尽して欲しい。(略)

諸君が高杉君の忠孝信の精神無くして高杉君の碑に対するのは、誠に恥ずべき至りであると思う。ことに学校の教員諸君には生徒を率いてこの碑の前に立つ時は、高杉君の精神である忠孝信の三道を訓誨(くんかい)(諭(さと)し教える)して、生徒が感奮して国家に尽す精神を興起せしむるように願いたい。そうでないと、この石碑も真の一片の石塊(いしくれ)となって、世に益する所は少しも無くなるので、私共も高杉君の神霊に対して相済まぬ訳である。(一部概略)』 と、繰り返し涙を流しながら力説した。

なお、除幕式には政界の来賓はじめ多数の参列者があり、小月から吉田まで人力車が連なったという。