高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

【福岡市/平野一枝】

桂小五郎。後に「維新三傑」と呼ばれた彼は厳密に言うと松下村塾の門下生ではない。松陰が「明倫館」で山鹿流兵法を教えていた頃の生徒であり、付き合いは村塾門下生より長い。歳が近いこともあって、松陰にとっては「友」だったのではないかと思う。現に松陰が下田からペリーの船乗り密航を計画していた時も桂は協力しようとし、松陰から断られたというそんな桂は、門下生たちにとっても「兄貴分」だったのだろうと思う。晋作にとっても幼い頃からの知り合いで良き兄貴分。実際に晋作は桂の世話になったことは数知れず・・・。

松陰に晋作のことを「俊邁な少年だ。ただ惜しいことは少し頑固な性質がある。将来おそらく人の意見を容れないだろう」とその点を矯正するよう案じた桂。松陰の答えは「高杉は過日必ず為すある人物と信じている。今みだりに矯正すれば、彼の天賦の力が発揮できなくなる」「十年の内に、もし自分が功を為すことがある時には、必ず高杉と図るつもりである。その時に彼は私より優れたところがあるだろう。二人相救いあえば、決して大過はないと信じている」と桂を納得させている。この松陰の言葉もあってか桂の晋作への細やかな情は人並み以上であった。八月十八日の政変の後、池田屋事件まで起こされた長州藩。三百名の先発隊を率いて上洛しようとする来島又兵衛を「説得せよ」との世子の命で赴いたというのに、説得出来ないとなると出奔してしまった晋作を説き伏せ萩に戻らせたのも桂でした。常に晋作(村塾門下生全体か)に情を示し、気ままな言動、暴発とも取れる暴れ牛・晋作を保護し続けてくれたのである。

蛤御門の後、潜伏を続けていた桂小五郎。晋作は下関で挙兵し、藩是をひっくり返し、さて第二次長州征伐に対応しようにも、混乱した藩の舵取り役がいない・・・。晋作は桂を探し求める。実際には自分で城崎に桂を迎えに行こうとしていた程、桂に帰って来て欲しかったようだ。晋作の御膳立てで帰藩した桂は用談役となり、事実上長州藩のトップとなり、晋作は実戦で海軍総督として活躍。長州藩に見事な勝利をもたらした。

松陰亡き後、晋作が奇策縦横な活躍が出来たのも、松陰の新作評を信じ欠点を補ってくれた桂の存在があったからこそ。また革命家ではあって政治家ではない晋作が、久坂亡き後、誰より求めたのも桂小五郎だったのだと思う。