高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

【札幌市/山中圭介】

久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿・入江九一  彼らを゛松下村塾四天王”と呼ぶ。
入江九一が松下村塾に入門したのは安政4年11月、晋作が江戸遊学中の頃である。

師である吉田松陰は九ーの謹直で温厚な性格を信頼し、早くも九ーは四天王の位置についたという。

そんな折り、松陰が老中・間部下総守の暗殺を謀り、次いで伏見要駕策を藩に具申する。しかし藩は危険と判断、松陰を野山獄に入れてしまう。諦めきれない松陰は門下生にこの策の協力を依頼したのだが、一番目をかけていた久坂玄瑞・高杉晋作をはじめとする5名が時期早尚と諫める手紙を送ってきた。
これに憤慨した松陰は彼らに絶交を申し付ける。

この策を最後まで支援したのが入江九一、和作(後の野村靖)の兄弟であった。しかし、兄弟ともに捕らえられ、この策は未遂に終わる。(後に晋作は後悔したようで、入江兄弟を賛美している)

入江九ーは晋作が剃髪し“東行”となった時の立ち会い人の一人だったという話もある。
その晋作が何か重大な行動を起こそうと計画した(内容は不明)。しかし同志からこぞって反対されてしまったのである。唯一、入江九一だけが賛同した。後に晋作を萩に連れ帰る命を受けた堀真五郎と三人の【烈士血盟書】が現存する。

晋作は10年の暇をもらい松本村で松陰の遺稿を読みながら暮らしている間、九一は尊王攘夷運動に参加している。文久3年5月10日、長州藩は下関海峡を通るアメリカ船に向かい砲撃をした。次いでフランス、オランダ艦船にも砲撃する。光明寺党の一員であった九一もこれに参加していた。長州藩は攘夷は決行したが、戦には敗れる。

この危機に晋作が呼び戻され文久3年6月に“奇兵隊”が誕生するのである。
入江九一は参謀として創設に貢献した。

この2ヶ月後、8・18の政変にて長州藩は尊攘派七卿と共に京より追放された。
同月、奇兵隊は教法寺事件を起こし総督高杉晋作は解任され、入江九一もまた長藩の失地回復をめざし、久坂玄瑞らと活動する事になった。

後に長州藩は武力にて冤罪をすすごうとする進発派による“禁門の変”を起こす事になる。
晋作はこの進発派の説得の命を受けるが失敗し、独断で上方へ向かい桂小五郎らと協議したのを“脱藩”とされ野山獄に投獄された。入江九一は久坂玄瑞らと行動を共にし制止につとめるが叶わず、久坂玄瑞らと共に自刃した。享年28歳であった。

師・松陰、晋作が命懸けで起こそうとした計画の賛同者に入江九一の姿がある。
皆が反対する中での彼の賛同は両人にとってかけがえのないものだったに違いない。
晋作の良き理解者であり同志だった入江九一は、晋作の2つ年上であった。