高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

【下関市/平松 資朗】

1、奇兵隊育ての親

山縣有朋は、天保9年(1838)萩藩下級武士(中間で、足軽より下)の家に生まれた。晋作より1歳年長。父有(あり)稔(とし)、母松子。小輔のち狂介と称した。号は素狂、含雪など。

松下村塾に入門し、終生松陰先生を深く畏敬し「門下生山縣有朋」と称した。山縣は草莽崛起の草莽として王政復古、国の近代化に尽力し、日清・日露の役にも勝利し、日本を独立不羈の国につくりあげ、松陰先生の志を実現した。松陰先生の「門下生」と称したのは、その誇りもあったのであろう。

奇兵隊に入り頭角を表し、軍監(No2)となり、実質的に奇兵隊を運営した。奇兵隊生みの親は、高杉晋作であり、育ての親は山縣である。

山縣は、首相・元帥・元老にまで栄達するが「一介の武弁」と称した。

 

2、徳地の別れ「ともし火の・・・」

①萩藩俗論派政権に狙われた晋作は、危険を察知して元治元年(1864)10月25日未明、変装して萩の自宅を脱出した。松陰先生の教え「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」を実践し、無駄な死を避け他日を期したのである。

②晋作は10月27日夜、山間部の徳地で身を潜めている奇兵隊陣営を訪ね、山縣らと会談した。俗論派打倒について議論したのであろう。しかし、山縣は晋作の考えに同調しなかった。

失意の晋作は、宿の行燈に一句を記して、翌朝出立。山縣は、晋作に奇兵隊幹部で松陰門下生の伊藤伝之助を付けて送り出した。晋作は富(との)海(み)から船で下関に向い、九州に亡命し野村望東尼たちの世話になる。

山縣は後年「懐旧記事」で述べる。 「二十七日高杉は萩を脱して山口に到り井上聞多の負傷を訪問し、直に徳地の本営に来り予に会して将来の方策を議し三(さん)更(こう)(午後11時から午前1時頃)に至る。微吟して云く     ともし火の影ほそく見る今宵かな

と僅々十七字の俳句は、実に当夜の情景を写したりというべし、夜将に明けんとす」

 

3、小倉戦争(第二次長州征伐。四境戦争、小倉口の戦)

①海軍総督高杉晋作は慶応2年(1866)6月15日、小倉城を攻め落とすために、まず門司・田野浦・大(だい)里(り)の敵兵を攻撃する方略を山縣狂介に図り、決定した。

翌16日、晋作は勝山御殿に行き、長府藩世子毛利元敏と会談し、長府藩報国隊を参戦させる賛同を得た。帰途、一の宮の奇兵隊本営(長門一宮住吉神社あたりか)で山縣たちと軍議を決定した。長州軍は奇兵隊・報国隊など約1千名、幕府軍は2万とも5万ともいわれる大軍。

②6月17日未明、晋作は藩に無断で買った軍艦の丙(へい)寅(いん)丸に乗り田野浦を奇襲。晋作に頼まれた坂本龍馬は、乙(いっ)丑(ちゅう)丸で旧門司を砲撃した。(龍馬が描いた「海戦図」が残る)。

山縣は、硝煙が海をおおい視界の悪い中、奇兵隊士らをひきい小舟で弾丸雨飛の間を門司と田野浦の中間に上陸し、幕府軍(小倉藩兵)と戦い勝利。敵は大里(だいり)(現在の門司駅あたり)まで敗走した。

水無月十七日豊前国門司にうち入りけるとき  山縣作

浪さわく硯のうみの ゆふたちに かきくもりたる筆たてのやま

③四境戦争は、寡兵だが西洋式で精鋭の長州軍が幕府軍に勝利し、倒幕の時期が早まったといわれる。

 

4、「東行墓」がある東行庵と東行記念館

①東行庵の前身は山縣の住居「無隣(むりん)庵(あん)」。山縣は慶応3年(1867)石川良平(湯玉村庄屋。第2代赤間関市長)の娘友子と結婚し、吉田清水山の無隣庵に住む。(これが京都の「無鄰菴(むりんあん)」のルーツ)。

山縣歌碑  清水山に住居留とき 無隣庵主 明治十七年五月十五日建立

隣なき世をかくれ家の うれしきは 月と虫とに あひ宿りして

明治2年(1869)春、山縣が洋行する際、晋作の愛人おうのに庵を贈り、彼女は晋作の墓守となった。

その後、山縣たちは梅處尼(おうの)のために、生活費を援助したり、現存する東行庵を建てて贈った。

②高杉の陶像と山縣の銅像

地元吉田の住民は、東行庵のために尽力した山縣に対する感謝の念と、近代日本のために尽力した彼の功績を称えて、昭和8年(1933)軍服姿の立派な銅像を建設した。しかし大東亜戦争の戦局苛烈に伴い昭和18年頃、国へ供出した。国家に尽した山縣の本懐であっただろうか。

残った台座の上には昭和31年(1956)11月、現存する高杉晋作の備前焼の陶像が建立された。

平成27年4月14日の東行忌に、若き日の山縣の銅像が、高杉陶像の近くに再建された。台座の「山縣狂介(有朋)像」の文字は、玄孫山縣有徳氏の筆。

③晋作は、一旦山縣へ贈った瓢(ひさご)を返してもらう。山縣は、大正5年(1916)高杉没後五十年記念の遺品展で瓢に再会した。(瓢は現在、東行記念館にある)

高杉東行の愛玩せし瓢を人の見せければ、往時を思ひ出して

ひさご酒君がすすめしありさまは 目にも耳にも猶(なお)のこりけり  大正5年、山縣作

山縣は、高杉に従って維新回天の夢を追った若き日を思い起こして、感無量であったろう。