高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

 

【山陽小野田市/香川真澄】

高杉晋作と加藤有隣はいわば弟子と師匠のような関係でしたが、お互いにその志を深く認め合った仲でした。

晋作が有隣と出会ったのは、万延元年、試撃行と名づけた北関東、北陸への遊歴の途次でした。晋作が笠間に住まう有隣のもとを訪ねたのです。有隣はいぜん水戸藩士だった博識な儒学者で、そのころ、笠間藩の藩政改革に失敗して政務の座を追われ、山間に隠棲していました。

そんな有隣のわび住まいを、晋作は旅の宿を朝早く起きだして訪ね、天下国家のことを、漢詩のことを、ことばを尽くして、心ゆくまで語り合ったのでした。晋作はすぐさま有隣の為人に惚れこみましたが、有隣もこの若者のことをおおいに気に入りました。夕方になって帰ろうとすると、先生はそれを引きとめて夕餉を出し、論議は深夜までつづきます。いったん辞去して宿に帰りますが、寝る暇もなく朝になり、別れのあいさつに行くと、有隣は食事を出し、書斎に招いて尽きせぬ論議に花を咲かせました。君命のため、しかたなく暇を告げた晋作でしたが、有隣との別れは「お会いして間もないのに、長年お世話になった師匠と別れる思いだった」(試撃行日譜)と言っています。

 

二人が再会したのは、その二年後の晩夏のことでした。

文久二年、英国の半ば植民地と化した清国上海を目の当たりにした晋作は、日本の行く末を憂えて帰国後に脱藩を決意、父親と藩主に書状を遺すと、そのまま加藤有隣の棲居に向かいます。有隣先生なら、じぶんの止みがたい攘夷論に賛同して、共に行動してくれるだろうと考えたのです。

官祿於吾塵土輕  じぶんにとって官職など塵ほどに軽い

笑抛官祿向東行  さっさと放り出して、東に向かって行こう

ところが、再会を喜んだのもつかの間、晋作の暴挙を知るや、有隣は晋作の将来を心配して、藩に戻るように説得したようです。先生は桂小五郎にも手紙を書いて、帰藩後の晋作の擁護を恃みました。

加藤有隣はこののち、長州藩に呼ばれて明倫館で教鞭を取り、維新後も宗教政策や教育制度に辣腕をふるうことになりますが、こうした成り行きも、もとはといえば、晋作との出会いがあったからこそ開かれた道ではないでしょうか。