高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

【山口市 /松前了嗣】

明治44年(1911)5月20日、厚狭郡吉田村(現・下関市吉田町)清水山において、高杉晋作建碑除幕式が開かれた。そこに姿を現したのが、明治の元勲・井上馨(聞多)である。当時77歳の彼は、元老として政財界に強大な影響力を持っていた。しかし、そんな彼も、幕末風雲の中、志士として駆けまわっていたあの頃は、まさに苦難の連続であった。その若き日、艱難辛苦をともにした人物、それが高杉晋作である―。

文久2年(1862)12月、晋作と聞多は、久坂玄瑞、伊藤俊輔ら同志とともに、英国公使館焼打ちを決行。晋作は役人・番人を斬殺する役。聞多は火付け役であった。

彼らは、夜の闇に乗じて公使館に入ると、火を放ち一目散に退散した。

しかし、聞多は、ひとり現場に留まった。火の勢いが十分でないとみた彼は、再び本館に戻り、戸板等を壊し、その上に火を放つ。すると、炎は見る見るうちに燃え上がった。こうして彼は柵を乗り越え外に出たが、誤って空堀に転落。周囲では火事を知らせる半鐘が、いたる所で鳴り響く。現場には多くの消防夫が駆け付ける。そんな中、聞多は何とか空堀から這い上がり、畑の中を右往左往、泥まみれになりながら逃げ惑った。

その頃、晋作は、妓楼に上がり、玄瑞ら同志とともに、炎に包まれる公使館を眺めながら、悠々と酒を飲んでいた。

慶応元年(1865)4月、下関開港問題で長府報国隊士に命を狙われた晋作と聞多は、亡命を決めた。この時、聞多は、腹掛半纏を着け、人足姿となり、九州へと逃れた。そこで彼は、別府の博徒・灘亀のもとに身を寄せ、親分子分の契りを結ぶ。しかし、この時、懐にあった50両全てを賭けに投じ、2・3日で使い果たしてしまった。

後日、聞多は入浴中に温泉客と出会う。そこで、彼は、虚実を交えながら話をはじめた。「体の刀傷は、若い頃、姦通の非行をしたため負傷した。自分は、下関の土方人足で、攘夷戦では台場を築き大砲を運搬したりした」こうして、話の面白さ、快活さを気に入られた聞多は、翌日、その客と鉄輪温泉に同行することになった。しかし、その道中、彼は客から約15貫目(約56㎏)の荷物を持たされることとなり、肩を腫らしながら1里半(約6㎞)ばかりの山道を歩かされた。自らを「土方人足」と称していた聞多は、これを拒むわけにはいかなかったようだ。

一方、晋作は、商人姿に身を変え、下関裏町の芸妓・うのとともに四国へと逃避行。松山では道後温泉、讃岐では金毘羅詣と洒落込んだ。

このように、対照的なふたりであるが、共通点もあった。まずそれは、「胆力」である。

彼らには事に当たり恐れたり尻ごみしたりしない精神力、肝っ玉があった。そしてもうひとつが、「大局を見据える力」である。海外を見てきた彼らは、目先のことにとらわれることなく、広い視野を持ち、幾多の困難を乗り越えながら、新たな時代に向かって駆けて行った。

しかし、そんな彼らに別れの時が訪れる。慶応3年(1867)4月14日、晋作がこの世を去ったのである。

元治元年(1864)6月、聞多が留学先のイギリスから帰国し、開国論を唱えた際、いち早く賛同してくれたのが晋作であった。同年8月、4カ国連合艦隊が来襲。当初、藩政府は、「防長二州焦土に帰しても攘夷は遂行せねばならぬ」と断言していた。しかし、その後、方針は二転三転。こうした藩政府員の優柔不断な態度に業を煮やした聞多は、諌死を遂げようとする。それを制止したのが晋作であった。同年9月、聞多は袖解橋で遭難し、瀕死の重傷を負う。その後、萩からひとり見舞いに駆けつけてくれたのも彼であった。

親友・高杉晋作の死。聞多は悲嘆にくれた―。

高杉晋作建碑序幕式。大勢の参列者で埋め尽くされた会場に、聞多の声がこだまする。

幕末の志士・井上聞多。明治の元勲・井上馨。緑の風が吹きわたる清水山で、彼の演説は続いた。