高杉晋作没後150年記念事業〜 晋作の夢、仲間たちの夢、今を生きる私たちの夢 〜

【細田利正】

高杉晋作のライバルと言えば、誰しもが「久坂玄瑞」と答えるだろう。二人は松下村塾の双璧と呼ばれる存在でもある。

しかし、ライバルだ、松下村塾の双璧だと言われても、久坂の活躍というものがもう一つ伝わってこない。ただこれは自分のような薄学者だからそう感じるのかも知れず、多く方は当たり前のように異論があるのだろう。

そんな中、自分なりに久坂の活躍に目を引いたのは、久坂が関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし結成された「光明寺党」である。この光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない士で結成され、これがのちに高杉が結成した「奇兵隊」の前身であること。晋作の奇兵隊結成に目が行くが、現実にはその前身は久坂が作っていたのだ。

また、吉田松陰が高杉に残した言葉に、「久坂は防長に於ける年少第一流の人物で、無論また天下の英才だ。 久坂の才は縦横無礙なり。高杉の識を以って、久坂の才を行う。気は皆その素より有するところ、何をか為して成らざらん。高杉よ高杉、天下固より才多し、然れども唯一の久坂を失うべからず…。」

「唯一の久坂を失うべからず」。松陰にそこまで言わせる人物。もうこの言葉が、理屈抜きで久坂の全ての評価だと思う。

しかし残念なことに、元治元年(1864年)7月19日京都で起きた蛤御門の変において、久坂は自害する。たった24歳である。その時、師松陰から「失うべからず」と言われた久坂を高杉は失ったのである。

久坂を失った事で高杉晋作の行動に何か変化があったのか想像するしかないが、自分は久坂を失った事により高杉は孤独とも戦って生きていたようにも思う。